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【青丹よし奈良の都と歌われる「青丹」とは?】

  「丹色(にいろ)」というのは、普段はほとんど使われることのない色の呼び方ですが、私たち日本人にとって馴染みの深い伝統色のひとつだといえます。「丹(たん)」というのは、頭のてっぺんが赤い鶴のことを丹頂鶴と呼ぶように、本来は赤を意味していますが、丹色というのはやや黄みがかった鮮やかな朱色のことで、由緒ある寺院や神社の門や柱、回廊、外観の一部などによく使われています。

  「青丹(あおに)よし 奈良の都は 咲く花の 薫(にお)ふがごとく 今盛りなり」

  これは万葉集で紹介されている小野老(おののおい)が詠んだ歌ですが、「青丹よし」は「奈良」の枕詞(まくらことば)であることはよく知られています。いつのことだったか記憶はあいまいなのですが、学校で「青によし」という枕詞を学んだときには、「青に」の「に」は青を強調するために使われているのだろうといった感覚でしかなかったのですが、色彩に関わるようになってはじめて「青丹」とは青(古代には緑と同じ意味で使われました)と朱色の2つの色を指していることを知りました。

  「青丹」の由来については諸説ありますが、奈良で生まれた私は、たとえば周囲の木々の緑を含めた、薬師寺の三重の塔や大講堂の赤と緑の鮮やかな色づかい、あるいは春日大社の東回廊の赤と青(緑)のコントラストなどが、この「青丹」という一言に集約されているに違いないと思っています。

  前出の和歌は、作者である小野老が大宰府(奈良や京都に都が置かれていた時代に、主として九州一円の防衛や統治のために設けられた官庁)へ赴任していたときに、奈良の都を懐かしんで詠んだとされていますが、現在、大阪に住んでいる私も、色とりどりの花が美しく咲き乱れるシーズンになると、幼い頃に遊び場にしていた薬師寺、東大寺、春日大社などの境内の風景を懐かしく思い出すことがあります。

(2006年06月30日 読売新聞;http://osaka.yomiuri.co.jp/shikisai/sz60630a.htm)




【青丹よし:常温液体金属・水銀】

~「丹」の意味するもの~

  「春は名のみの風の寒さや」と歌う『早春賦』の一節には、閉塞感の強い冬から開放感広がる春への思いが込められている。春を待つ心情は、日本の文化の中でまた格別の風景を描き上げる。緑萌え花開くのを待ちつつ迎える春は、喜びの気分が横溢する。

  しかし、その春の歓喜の景色を、いまここの風景として堪能するのではなく、遥か遠い都の風景として偲ぶものも歴史上にはいた。万葉歌人の小野老朝臣(おののおゆあそみ)は、大宰府にあって都の春を次のように詠った。その気分はいかばかりのものだったろう。

  青丹(あおに)よし・奈良の都は咲く花の

      薫(にお)うがごとく・いま盛りなり

  「青丹よし」は、奈良にかかる枕詞でその由来は二説あるという。ひとつは岩緑青(マラカイトグリーン)と呼ばれる色の元となる青丹が奈良に産出したとの記録があるからだとするもの。丹はここでは土の意味であり青丹とは文字どおり青い土を意味する。もうひとつはその青丹から抽出した色を馴熟すること、つまり「ならす」ことに由来するものだとするもの。そして、「よ」や「し」はどちらも間投の助詞で青丹を強調するもので特別な意味は持たない。

  国文学的には、この解釈が一般的である。だがこの枕詞を単に枕詞として置かれたとだけ見るのではなく、意味を持つものとして角度を変えてみると少し様相が違ってくる。

  平城京の都を、爛漫と咲き誇る桜の花に見立てたこの歌の持つ美しい背景がさらによく見えてくるはずだ。そのキーワードとなるのが「丹」の文字である。丹頂鶴とは頭のいただきの赤い鶴であり、丹花とは赤い花を指す。こうした言葉に見るように、「丹」は通常、鮮やかな赤を意味する言葉として用いられる。

  それは硫黄と水銀との化合した鮮やかな赤い土である「丹」に由来する。丹は別名「辰砂(しんしゃ)」ともいわれる。中国湖南省辰州に産したことから名づけられたものだ。この辰砂から得られた赤い色は同音の「真赭」をあてて「まそほ」と読ませ、赤の別名ともなる。

  この丹の存在を頭において「青丹」を青と丹に分けて読めば、若々しく鮮やかな赤という色が浮かび上がってくる。中国では四季を色に分けるが青は春の若々しさを表す。ちなみに夏は燃える朱、秋は静謐(せいひつ)の白、冬は幽玄の玄(くろ)。そこから 青春、朱夏(しゅか)、白秋、玄冬(げんとう)という言葉も生まれる。閑話休題。

  また「薫」という文字も、元来は赤色が発するその輝くような強さを表すものであり、後に香りに関する言葉へと変じていったものだという。ここにもまた赤に関する意味が込められている。そこで「丹」という真っ赤な色を軸にこの歌をもう一度眺めてみれば、そこには平城京の御所や寺院が、春の萌えいずる山々や青空にくっきりと美しい真赭を浮かび上がらせている様子が見えてはこないだろうか。その時、都を爛漫たる桜のようだと語った詠人の、都への想いが切ないほどに伝わってくる気がしないだろうか。

  万葉の美しい風景を詠った歌の解釈に 辰砂という「硫黄と水銀が化合した赤い土である丹」を持ち出したが、これは必ずしも近年の解釈というわけではない。辰砂の存在は、実は遠く縄文、弥生の時代から知られたものだったからだ。大宰少弐(だざいしょうに)という位にあった役人が、「青丹よし」と詠って都のあでやかな赤を偲ぶという解釈も、決して理由のないこととはしない。

  水銀を含むこの赤が、強い殺菌力や防腐効果を持つことを知っていた古え人は、権力者の埋葬等にこれを用いていた。古墳内の石室が真っ赤に塗られているのもこの辰砂、すなわち丹である。高貴な者のみが独占的に利用していたと思われる古代の丹という色には、それを取り巻く者たちにまた特別な想いや意味を抱かせていたとは推察できないだろうか。

~水銀と鍍金と錬金術~

  古来、辰砂は火山国である日本において多くを産出した。ことに奈良、和歌山から徳島、愛媛を通って熊本、大分にいたる中央構造線と呼ばれる地帯に沿って、昔から辰砂の鉱山が数多く存在した。中央構造線とは、西南日本の北側と南側を分ける大断層のことであり地殻活動でできた断層が連なったものである。

  水銀のような沸点の低い金属は、溶岩が冷え固まっても気体のまま岩石や断層の割れ目に侵入し上昇しながら冷却されていくために地表近くに分布しやすい。中央構造線に辰砂の鉱山が数多く存在したのも、断層を上昇する水銀が地表近くの硫黄と結びついて作り出されたからに違いない。

  そして古い時代には、水銀は辰砂の鉱脈表面から汗状に吹き出した自然水銀として得られるものだった。だがやがて赤い辰砂を熱して水銀だけを気化させる蒸留法によってこれを手にすることができるようになり古代においても大量の水銀が生産されるようになった。

  ことに古代日本では大量の水銀を精錬し、中国などへの朝貢品にした時代さえあるという。では大量に生産された水銀は、古代日本においては、何に使われたのだろうか。ひとつの例を見てみよう。

  文献によれば、巨大な奈良の大仏造立では、820kgという膨大な量の水銀が消費されたとある。いったい何のために、またどのように使われたのだろうか。それは、大仏全体に黄金の輝きを演出するための鍍金(めっき)を施すのに使われたのである。

  水銀には金属をその中に溶かし込む性質がある。他の金属を溶け込ませた水銀合金をアマルガムという。やわらかい物質という意味を持つギリシア語のmalagma(マラグマ)に由来する。ただ水銀はマンガン、鉄、コバルト、ニッケルなどの少数の金属とはアマルガムを作らないために、古来水銀の容器には鉄が用いられた。

  こうした水銀の性質を利用して当時の工人たちは水銀に金を溶け込ませた金アマルガムを作ったのだ。これを刷毛で大仏に塗り、後に熱して水銀だけを蒸発させることで金鍍金を完成させたのである。

  元来金アマルガムのことを滅金(めっきん)と呼んだ。その滅金を用いて金を青銅表面に付着させることから、後に、金属表面へ他の金属を付着させる技の全てを滅金、もしくはその言葉から派生した鍍金という言葉をあてるようになったといわれる。

  奈良時代に行われた水銀を用いた鍍金技術は、渡来人によってもたらされたものだ。その技をはじめて見た古代の日本人は、これを魔術のように感じたに違いない。いや、水銀の持つ不思議な働きを魔術のように感じたのは、往時の日本人ばかりではない。中国や西洋においてもそれは同じであった。

  水銀とは不思議な金属である。まず何よりも常温で流体を示す金属であることだ。常温流体金属は水銀だけの特質である。しかもいくつかの金属を除く全ての金属を容易に溶かし込んでしまう働きを持つ。その神秘な力に、古来多くの人々が魅せられた。

  丹が持つとされる強い殺菌力や防腐効果も、その力は水銀の持つ性質によってもたらされたものだ。その効果を知っていたのだろうか中国統一の始祖、秦の始皇帝はその墳墓に水銀の池を作らせたという。自らの遺骸を永遠ならしめるためにである。長い間文献だけで伝わっていた始皇帝墓陵が中国で発見されたが、膨大な数の兵馬俑とともに水銀の池もその存在が確認されている。

  しかし水銀の不思議をさらに突き詰めようとしたのが、中国でいえば錬丹術、西欧でいえば錬金術であろう。錬丹術とは 丹砂(たんしゃ)とも呼ばれる辰砂を主要な材料として 丹薬(たんやく)を製造する術でありこの丹薬を服用すれば不老不死の仙人になることができると信じられていた。また、丹薬の高級品はそのまま黄金に変化すると考えられたあたりは、鉛などの身近な金属から黄金を製造しようとした西欧の錬金術と同じものだということができる。そして錬金術もまた不老長寿の薬や万能薬を作る術を含むと考えられており両者はまさに同根のものということができよう。

  錬金術の世界において錬金術師たちは、水銀が金属に共通な絶対的要素を持っていると考え、錬金のプロセスで物質を変容させたり、黄金にまで導くための重要な働きをなすものと捉えていた。そこには、他の諸金属と結合して合金を作りやすい水銀の化学的性質が関係しているといえよう。

  ただ、ここで断っておかなければならないことは、錬金術という言葉の持つ意味である。錬金術というと通常、実現できそうもない安直な資金作りなどを揶揄して呼ぶ場合に用いられる。しかし実際の錬金術は、そのような揶揄とは違って単に似非科学的な愚かな技術だけを追い求めたものではないとされる。

  現在ではそれどころか「単なる物質操作・薬物調合の技術にとどまらず、体系的な思想と実践とを具備した 独自な世界解釈の枠組み」とする見方が有力なのである。そして、似非科学的な技術と見なされてきた数々の錬金術の実験からは、その後の化学における基礎さえ作り出されたといっていい。

  我々が知る英語のchemistry(ケミストリー)の語源は、実は錬金術をさすalchemy(アルケミー)にあるのだ。しかも、アラビア語からの転化であるこの語のalが冠詞であることを考えれば、chemyの部分は、ドイツ語やフランス語の「化学」を表す語と同じである。つまり錬金術は言葉の上ですでに化学を内包していたのである。

  ちなみにこのchemyの語源は エジプトのchem(ケム)であるといわれる。これは黒い土を意味する。毎年洪水のたびにナイル川が運んでくる上流からの肥沃な黒い土chemに、万物がそこから生まれる聖なる始源という意味が与えられたものだ。錬金術は、この黒い土から新たな何かを作り出すことに始まったのだといっていい。

(http://homepage2.nifty.com/ToDo/cate1/suigin1.htm)




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